平成二十五年十二月八日 東憂連の同志と共に(三ヶ根山慰霊)

殉国七士廟

 昭和十六年十二月八日未明、我が大日本帝国海軍は米国艦隊が停泊のハワイ真珠湾を攻撃、大東亜戦争の火蓋が切られた。
今から72年前の事である。
破竹の勢いで東アジアを支配していた白人を駆逐し「開戦の詔勅」で示された大儀を貫いた。
結果として戦いには敗れはしたが、戦後、東アジア諸国は次々と起ち上がり、長年続いた白人による「植民地支配」から独立を果たしていった。
 タイのククリットプラモード元首相が実に解り易く述べている。
「日本のお蔭でアジア諸国は全て独立した。
日本というお母さんは難産して母体を害なったが、生まれた子供はスクスク育っている。
今日、東南アジアの諸国民が、米・英と対等に話が出来るのは一体誰のお蔭であるのか。
それは身を賭して仁を為した日本というお母さんが在った為である。
十二月八日は、一身を賭して重大な決心をされた日であり、我々は決して忘れてはならない。」
極東国際軍事裁判(東京裁判)は連合軍(米国)による国際法を完全に無視をした茶番劇だ。
 しかし、この「東京裁判」は現在も日本人の自虐史観の元となっているのだ。
戦争犯罪として七人の指導者が事後法の「平和に対する罪」「人道に対する罪」という汚名のもと、A級戦犯として処刑された。
東條英機(首相・陸軍大将)土肥原賢二(陸軍大将)板垣征四郎(陸軍大将)木村兵太郎(陸軍大将)松井石根(陸軍大将)武藤章(陸軍中将)広田弘毅(首相)7名の遺骨は三文字正平(弁護士)によって密かに持ち出され、ここ、三ヶ根山の太平洋を眺められる処におさめられた。
 十二月八日、八月十五日には毎年多くの国民が訪れる。
昭和天皇も三ヶ根山におこしになられたが、七士廟には来られず宿泊先のホテルからこの方角に向かわれ黙祷されたと云う。
廟の保護には三ヶ根山で「ゆーとぴあ」という飲食店を営んでいる伊藤さんが無償でおこなっており、いつ行っても綺麗に清掃されている。
実に感謝したい。

木村 高幸

 

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