中国(中華人民共和国)と表現することの異様さ

支那と呼ぶべき理由を述べよう

現在、マスコミを含めほとんどの日本人は、支那のことを中国(中華人民共和国)と呼称している。
実は、この語彙はれっきとした日本語である。

外務省の通達

昭和21年当時連合軍の管理下にあった外務省は、東京都内の主要マスコミに対して「支那」の呼称をやめるよう通達した。
終戦後、同國代表者が公式・非公式にこの呼称をやめてもらいたいとの要求があり、外務省は理屈を抜きにして先方の嫌がる文字を使わないように要請したことに始まる。

しかし、これは支那と呼ぶべきではないとされているのは、中華民国、つまり台湾のことである。
支那という言葉は、日本人が相手を侮蔑している差別用語という観念をマスコミは、常に言う。

『広辞苑』には、「支那」とはシナに対する外国人一般の呼称であると書かれています。

支那(しな)
「秦(しん)」の転訛外国人の中国に対する呼称。初めインドの仏典に現れ、日本では江戸中期以来第二次大戦末まで用いられた。
戦後は「支那」の表記を避けて多く「シナ」と書く。
このことからも、「支那(シナ)は日本人だけが使った」言葉ではない事が明らかです。
むしろその呼称が世界標準だったために、日本人までが使うようになったというのが真実です。 そもそもこの呼称「中国」は、日本語であり清朝の時代に多くの支那人が日本へ留学し、様々なことを学び、本国に持ち帰り、今、支那で使われている語彙の7割近くが日本起源といわれている。

他の国々では 支那 をどう呼んでいるか
英語    ・・・・・   China (チャイナ)
ドイツ語  ・・・・・   China (ヒーナ)
オランダ語    ・・・・・   China (シーナ)
フランス語 ・・・・・  Chine  (シーヌ)
イタリア語 ・・・・・  Cina    (チナ)
スペイン語 ・・・・・  China (チナ)
ポルトガル語・・・・・  China    (シーナ)
以上のように世界ほぼ全ての国が、支那と呼んでいる。
なぜ日本だけが、世界の共通呼称を使ってはならないのか。
摩訶不思議な現象だろう。
そもそも、中華人民共和国の英語名は、”People’s Republic of China”で支那政府自身が付けた呼称なのだ。
これを、日本語で訳すと、『支那人民共和国』、まがいのない事実だ。
支那人の劣等感と思い上がりが、このような事態を招いているとしか思えない。
本当の差別語や明らかに侮蔑している場合はともかく、相手をどう呼ぶかは呼ぶ側が決めることであり、「このように呼んで欲しい」と要請をするのはいいが、それが受け入れられるかどうかは相手次第である。それを相手が命令に従わないからと言って「差別」と決めつけるのは、強盗・追剥ぎの言いがかりに等しいものだ。ましてや相手が国際標準の呼び方をしているところに、ごく少数の国しか使わない特殊な呼び方を押し付けるなどというのは論外中の論外である。
中国という言葉には、世界の中心の国という「華夷秩序」(かいちつじょ)の中から発生している。
所謂、その、世界観は支那を世界の中心として、以下
東夷(とうい) ・西戒(せいじゅう) ・北狄(ほくてき) ・南蛮(なんばん)
このように、中華思想の中では、支那以外の国々は、野蛮な劣等国とされ、その野蛮な四方の民族は、支那に貢物を納めさせ(朝貢と言う)王の称号を与えていた。
そして、支那には、天からの命(天命)を授かって世界を治める、天子がいるとされていて、その天子が政治を行う場が朝廷であり、皇帝を司り、よって「皇」の文字はその天子に唯一、与えられるものとされている。
それ故に、支那や朝鮮は、今においても「日王」などと、わが国を、侮辱した卑劣な言い回しを、するのである。
日本国は、古の時代から今日まで、弐千六百七拾弐年の悠久の歴史を刻んでいる。
ただの一度とて、華夷秩序の中に組み込まれたことも無く、かの有名な、聖徳太子も、隋の煬帝に
日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙なきや
            『日出處天子致書日沒處天子』
親書を送っている。
以上のように、華夷秩序の中では、天子という言葉は、支那の皇帝しか使うことを許されていないのにも関わらず、堂々と、聖徳太子は天子という言葉を使っているのであり、隋の煬帝も、これを受け入れているのだ。
これは、支那の歴史書(隋書)にも記されている。
日本は、日清戦争(明治弐拾七年)で清国を破り、また、その属国であった朝鮮を独立させた。
多くの、支那人や、朝鮮人が、日本に渡りそして多くのことを学び知識を得、自国へと持ち帰ったのではないのか。
今日の彼らの大いなる発展は、そこから始まったのだ。
しかし、彼らには、感謝の心は欠片も無い。
日本人は、彼らに対してなんら遠慮する必要も、媚も要らない。
堂々と、我が民族の誇りと歴史の偉大さを言い続ければ良いだけのことである。
今後は、支那という呼称を堂々と連呼すれば良いだけのことではないか。

投稿よしひさ

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